ブログ

2026/02/23ブログ

ウクライナ選手の「追悼ヘルメット」と表現の自由 – CAS裁定(OG 26/09)が示す実務的示唆

1 まず何が起きたか

ミラノ・コルティナ2026の男子スケルトンに出場予定だったウクライナ選手Vladyslav Heraskevychが、ロシア侵攻により死亡したとされるウクライナ人アスリートの肖像等をデザインしたヘルメットを、公式トレーニング(2026年2月9日)で使用しました。
このことはIBSF(国際ボブスレー・スケルトン連盟)からIOCへ共有され、IOCは「競技でそのヘルメットを用いて出走することはできない」旨を、書面で明確にしました。IOCは、当該ヘルメットの代替として無個性の黒い腕章又はリボンの使用を例外的に認め得る旨も示しました。


しかし、選手は記者会見等で当該ヘルメットを競技でも着用する意思を公言し、競技当日(2月12日)もその意思を維持したとされています。

その結果、競技当日、IBSFの競技ジュリーが当該選手をスタートリストから除外する決定を出し、決定は「final, incontestable(最終・不可争)」と記載されました。選手は同日、CASアドホック仲裁に申立て(暫定措置も申請)を行い、最終的に本案は棄却されました。

重要なタイムラインとして、当該競技は4本のうち既に2本が2月12日午前に終了しており、残り2本が翌13日夜に予定されていた、という事情も決定書に明示されています。

2 何が争点だったか

争点は「政治的宣伝」(オリンピック憲章Rule 50)にあたるかというより、次の3点に収れんしています。

①CASは審査できるのか

IBSF側は、会場で出たジュリー(審判)決定でありフィールド・オブ・プレー判断であるからCASは介入できないと主張して管轄を争いました。

②競技での着用はルール違反か

IOCの「表現ガイドライン(Expression Guidelines)」が、競技中のfield of playでの「views(見解)の表現」を禁止している。ヘルメットがその「見解の表現」に当たるか。

③違反前に排除できるのか、排除は重すぎないか

実際の競技での違反は未遂段階です。予防的にスタートリストから外すことが許されるのか。許されるとしても、競技出場を奪う措置が比例原則(相当性)に反しないか。

3 結論

CASアドホック(単独仲裁人)は、CASの管轄を肯定した上で、申立てを棄却しました。暫定措置も却下。費用は手続自体無料で、各自負担と整理されています。

4 判断のポイント

ポイント1 :フィールド・オブ・プレー抗弁は通らない

仲裁人は、IBSFジュリー決定は、採点・計時・判定のような典型的フィールド・オブ・プレー判断ではなく、当該決定の目的は「IOC決定(参加制限)を実施すること」にあるとしました。会場で直前に出た、という外形だけでフィールド・オブ・プレーに分類されるわけではないと線引きをしました。

ポイント2:内部救済を尽くしたことは不要(受理適法)

IBSFジュリー決定が「最終・不可争」であり内部救済が存在しないため、申立ては受理要件を満たすとされました。

ポイント3: 暫定措置は「間に合うか」と「勝訴見込み」で落ちる

暫定措置(競技復帰等)については、CASアドホック仲裁14条に定める3要件(回復困難な損害、勝訴見込み、利益衡量)を満たすことが必要としたうえで、申立時点で既に競技が4本中2本が終了していたこと等から、暫定措置で保護すべき具体的可能性が示されていない、として却下しています。
加えて本案でも勝訴見込みがないことを理由にしています。

ポイント4 :Rule 50ではなくRule 40.2とExpression Guidelinesが主戦場

仲裁人は、本件の審査基準は「政治的宣伝」より広い「見解の表現(expression of views)」規制にある、と明示します。
つまり「これはプロパガンダではない」という主張だけでは争点にならず、Rule 40.2(表現の自由を認めつつ、IOC理事会のガイドラインに従う)とExpression Guidelinesの適用が中心になることを指摘しました。

ポイント5 :表現ガイドラインは人権(ECHR10条)と両立すると判断

仲裁人は、国際競技団体やIOCの団体自治を尊重しつつ、その限界としてアスリートの基本的人権がある、という枠組みを採用しました。
特に、ECHR(欧州人権条約)10条の表現の自由は、国家以外にも「支配的地位を持つ国際スポーツ団体」には間接的に尊重が求められる、という形で位置付けた上で、ガイドラインは多数の表現機会を確保しており、競技中等の限定的禁止は合理的均衡にあるとして適合性を肯定しました。
ここは今後の同種紛争でも参照されうる部分になるように思います。

ポイント6 :本件ヘルメットは「見解の表現」に当たる

仲裁人は、戦争で殺害されたアスリートの追悼は不可避に政治的含意を伴うこと、選手本人が「ウクライナ情勢を世界に伝えたい」等の趣旨の発言を繰り返していたこと、社会的にも政治的メッセージとして受け取られていること等から、ヘルメットはExpression Guidelines上の「見解の表現」に当たると認定しました。
他方で、追悼や問題提起自体を否定せず、トレーニングやメディア等での表現が許容されていた点も明確に述べています。争点は「内容」より「競技中のfield of playという場所と時点」ということです。

ポイント7 「違反前の予防的排除」を許す法的構成

本件の特徴は、実際の違反が起きる前に排除した点です。仲裁人は、選手が禁止通知後も着用意思を維持し、競技当日も適法な代替ヘルメット(規則適合ヘルメット)で出場する意思がなかったため、違反は切迫していた(imminent)と認定します。
さらに、違反を許して事後処分すべきだという見解を退け、「争うなら法的手続で争うべきで、決定を無視する権利はない」ことを明確に示しました。
法的根拠としては、違反後の懲戒権限(オリンピック憲章Rule 59.2)からの反対解釈(より強い理由付けとしてのa fortiori)により、切迫した違反を防ぐためにも合理的・相当な範囲で排除が許される、としています。

ポイント8 :比例原則(相当性)で排除を是認、ただしアクレディテーション撤回は不要と評価

競技参加禁止は最も重大な措置で、未遂段階では最終手段(ultima ratio)であるべきとしたうえで、切迫性と代替手段不存在を認定し、排除を比例原則に反しないと結論づけました。
一方で、IOCが一時アクレディテーションを撤回した点(オリンピック参加資格の喪失)は「違反防止に必要ではなかった」と述べ、抑制的な評価も示しています。

また、選手が「他の追悼・表現事例との不均衡(選択的執行)」を主張した点については、情報が限られ比較可能性を評価できないとして、少なくとも本件判断を左右しない、としています。

5 実務的示唆(弁護士・競技団体・選手の観点)

まず入口は「フィールド・オブ・プレー」では決まらない場合がある

競技会場でのジュリーの決定であっても、「これは競技の判定(採点やタイムなど)だから介入できない」という形式的な理由だけでCASへの申立てを諦める必要はありません。その決定の実質が「IOCの参加制限ルールの実施」などであれば、審査の対象になり得ます。

現場でトラブルが起きた際、それが「純粋な競技ルール(フィールド・オブ・プレー)の領域」なのか、それとも「出場資格や表現の自由といった権利制約の領域」なのかを、初動の段階で早期に法的に切り分けることが重要です。

表現規制はRule 50よりRule 40.2(+ガイドライン)の方が射程が広い

アスリートの表現を巡る紛争では、「政治的な意図はない(オリンピック憲章Rule 50のプロパガンダには当たらない)」と主張しがちですが、それだけでは審査の的を射ないリスクがあります。本件が示す通り、Rule 40.2に基づく「表現ガイドライン」は、政治的かどうかにかかわらず、より広い「見解の表現(expression of views)」を規制の対象としているためです。

選手側が争う場合の主張の組み立ては、単なる「政治性の否定」ではなく、「ガイドラインの禁止要件に該当するか」と「処分の重さは比例原則(必要性と相当性)にかなっているか」という点にフォーカスして設計する必要があります。

予防的排除が許されるときの事実認定は「切迫性」と「代替可能性」

本件の最大の特徴は、実際に競技で違反ヘルメットを使用する「前」に排除(スタートリストからの除外)された点です。これが適法とされた決め手は、選手の記者会見での発言や当日の態度から「違反の切迫性(確実に着用して出走するだろう)」と「代替策(無地の腕章など)をとる意思がないこと」が認定されたためです。

選手や団体による事前のコミュニケーション(通知、回答、会見での発言、SNS等)の記録は、そのまま「予防的排除が許されるか」の法的証拠になります。関係者は、有事における発言や記録の残し方に細心の注意を払う必要があります。

暫定措置は「時間」と「実現可能性」が勝負

すでに競技が進行している中でCASに暫定措置を申し立てる場合、「いま措置が認められれば、現実に何を回復できるのか」を具体的に立証できなければ、本件のように却下されてしまいます。

アドホック仲裁における暫定措置の申立ては、競技のタイムスケジュールを精緻に逆算し、「物理的に間に合うのか」「実現可能な救済手段は何か」を最初から想定して戦略を構築しなければなりません。

6 本件決定の意義

本件決定の最大の意義は、ウクライナ情勢という政治的・感情的に議論が二分されやすいテーマに対し、CASが「司法は政治と法を混同しない」というスタンスを貫き、あくまでRule 40.2(表現ガイドライン)と比例原則の枠組みの中で冷静に処理した点にあります。

特に、スポーツ仲裁においてアスリートの「表現の自由」を人権条約(ECHR)の間接適用という形で明示したこと、そして未遂段階における「予防的排除」を適法とするための法的要件(切迫性と代替手段の不存在)を具体化したことは特筆すべきです。本決定は、今後のメガスポーツイベントにおける「アスリートの発信」と「ルールの限界」を巡る紛争において、極めて重要なリーディングケース(参照基準)となると思われます。

7 北京オリンピックの事案と比較から見えるもの

上記のとおり、CASの裁定は「与えられたルールの枠組みの中」では極めて論理的で妥当なものでした。しかし、そもそもそのルールを運用するIOCの姿勢自体は公平と言えるのでしょうか

実は、Heraskevych選手は、北京オリンピックにもウクライナ代表選手として参加していました。
2022年2月11日、同選手は、競技を終えた直後、テレビカメラに向けて「No War in Ukraine(ウクライナに戦争はいらない)」とプリントされた自作の紙を掲げてアピールしました
IOCは、この行動を「普遍的な平和を求める一般的な呼びかけ」であると解釈し、オリンピック憲章Rule50には違反しないとして不問に付しました。
時期的には、ロシアがウクライナに本格的に侵攻する直前の時期でした。

本件と比較してみます。

比較ポイント 2022年 北京大会 2026年 ミラノ・コルティナ大会
表現の手段 競技直後に「No War in Ukraine」と書かれたを掲げる 競技に、戦死した選手の写真をプリントしたヘルメットを着用(しようとした)
メッセージの性質 「戦争反対」という普遍的な平和への訴え(と解釈) 特定の犠牲者の顔写真を用いた、より直接的で具体的な追悼・抗議
当時の国際情勢 ロシアによる本格的な軍事侵攻の直前 侵攻開始から約4年。戦争が長期化・泥沼化している状況
IOCの対応

不問(お咎めなし)

即刻失格剥奪

両事案に大きな処分差が生じるほどの違いがあるのかを検討してみます。

1「タイミング」と「聖域」の違い
北京大会では「競技が終わった後」の紙によるアピールでしたが、ミラノ大会では「競技中の用具(ヘルメット)」を使用しました。IOCは、競技そのものが行われるエリア(フィールド・オブ・プレイ)に政治的な表現が持ち込まれることを極端に警戒しており、この「場所とタイミングの違い」が運命を分けたように思われます。

2 ルールの曖昧さと「ダブルスタンダード」
「戦争反対」(北京大会)は許されたのに、「戦死者の追悼」(ミラノ大会)は許されませんでした。前者は時期的にロシアとの戦争を誰もが想起するもので、一般的な戦争反対表明とは異なるように思います。同じ選手の切実な思いであっても、その時のIOCの解釈次第で「平和の訴え」(OK)にも「政治的表現」(NG)にもなってしまうという、五輪ルールの危うさが浮き彫りになっています。
実際に、国際政治やスポーツ法学の専門家からは「2022年の北京大会での不問は、ロシア侵攻直前という世界中がウクライナに同情していた世論を前に、IOCが選手を罰することを避けるための特例的な便宜(方便)だった」という厳しい指摘も上がっており、近年の報道でもIOCのダブルスタンダードが強く批判されています。 

3 情勢の悪化とIOCの方針転換
戦争が4年も続き、国際社会の分断が決定的なものとなる中、IOCは「これ以上の政治的対立を絶対にオリンピックに持ち込ませない」と危機感を強めたのではないかと思います。ミラノ大会での厳格な失格処分は、もはや特例を許さないというIOCの強硬な姿勢への方針転換をしたように思います。
なお、今回のミラノ大会のパラリンピックは、ロシア・ベラルーシの資格回復を認めています。

両事案におけるメッセージの本質(ロシアへの抗議)に明確な違いはありません。
にもかかわらず、天と地ほどの処分の差を生んだのは、選手の表現内容ではなく「IOC側の都合と、その時々の国際情勢の空気」に過ぎないと言えます。

オリンピック憲章Rule50(政治的表現の禁止)は、決して絶対的で公平なルールではなく、世論の反発や大会運営のリスクを避けるためにIOCが恣意的に運用する「ダブルスタンダード」を抱えていることが露呈したように思います。このルールの曖昧さが放置される限り、アスリートの切実な「表現の自由」と組織が掲げる「政治的中立性」の衝突は、今後の大会でも繰り返されるおそれがあります。

弁護士 大橋 卓生

[出典]
CAS OG 26/09 Arbitral Award(事実経過は主にp.3-7、手続はp.7-8、管轄・受理・暫定措置はp.16-17、準拠法と本案判断枠組みはp.18-23、当てはめはp.24-28、結論はp.29)

免責
本稿は公開情報に基づく一般的な解説であり、個別案件への法的助言ではありません。具体的事案では、適用規程、通知経緯、期限、証拠状況により結論が変わり得ます。

Copyright © パークス法律事務所 All Rights Reserved.