Anti-doping/アンチ・ドーピング

2026/06/24Anti-doping/アンチ・ドーピング

検査拒否は陽性反応に匹敵するのか - Vondroušová選手4年資格停止決定の示唆 –

2026年6月22日、国際テニス・インテグリティ機関(ITIA)の手続において、チェコの女子テニス選手Markéta Vondroušová選手に対し、4年間の資格停止処分が科されました。

Vondroušová選手は、2023年ウィンブルドン女子シングルス優勝者であり、東京2020オリンピック銀メダリストでもあります。今回問題となったのは、禁止物質の陽性反応ではありません。

問題となったのは、2025年12月3日午後8時頃、ドーピング・コントロール・オフィサー(DCO)による検体採取の求めに対し、検体を提出しなかったことです。

1 検査拒否は、それ自体が重大なアンチ・ドーピング規則違反となる

アンチ・ドーピング規則では、禁止物質が検出された場合だけが違反になるわけではありません。

正当に権限を有する者から通知を受けた後、やむを得ない正当理由なく検体採取を拒否し、又は検体を提出しないことも、それ自体がアンチ・ドーピング規則違反となります。

このルールは、検査制度の実効性を確保するために重要です。仮に、ドーピングをしている選手が検査を拒否することで陽性反応よりも軽い制裁で済むのであれば、抜き打ち検査制度は機能しなくなります。

そのため、検査拒否は、禁止物質の陽性反応に匹敵する重大な違反として扱われます。

2 選手側の主張

公表されている決定文によれば、Vondroušová選手は、主に2つの主張をしました。

第1に、DCOによる身分確認・権限確認が不十分であり、適法な通知がなかったという主張です。

第2に、選手は当時、全般性不安障害と急性ストレス反応の状態にあり、認知能力・実行機能が著しく損なわれていたため、検体採取に応じることが精神的・道義的に不可能であったという主張です。

ITIAの公表文によれば、選手側は、ストレス、メンタルヘルスの問題、安全面の懸念が意思決定に影響したと説明しています。

3 仲裁パネルの判断

仲裁パネルは、Vondroušová選手が、2025年12月3日、正当に権限を有する者から通知を受けた後、やむを得ない正当理由なく検体採取を拒否したと認定しました。

その結果、TADP Article 2.3の違反が成立するとされ、4年間の資格停止が科されました。資格停止期間は、2026年6月22日の決定日から開始されています。

他方で、2025年12月3日から決定日までの間に得た競技成績については、失格とはされていません。

4 なぜメンタルヘルスの主張は認められなかったのか

現時点で公表されているのは、operative award、つまり結論部分です。詳細な理由付き決定は後日公表される予定とされています。そのため、審判体が医学的証拠をどのように評価したかは、現時点では不明です。

ただし、アンチ・ドーピング実務上、検査拒否を正当化するcompelling justification、すなわちやむを得ない正当理由は、かなり狭く解釈されます。

単に、不安、恐怖、混乱、体調不良、善意があったというだけでは足りません。客観的に見て、検体を提出することが身体的、衛生的、道義的に不可能であったといえる程度の事情が必要です。

したがって、今回の判断も、メンタルヘルスの問題自体を否定したものと見るべきではありません。むしろ、当時の精神状態が、検体採取に応じることを客観的に不可能にするほどであったとは認められなかった、という理解が適切です。

5 DCOの身分確認はどこまで必要か

本件では、DCOの身分確認・権限確認も争点とされました。

この点については、理由付き決定を確認しなければ、本件で実際にどのような身分証・権限文書が示されたのかは分かりません。

もっとも、CASの判断傾向からすると、DCO側に通常求められるのは、検体採取の権限を示す文書と、DCO本人の身分を確認できるID等です。

選手個人名入りのミッションオーダーや、検体採取チーム全員についての個別授権書まで、その場で提示することが常に必要とされているわけではありません。

他方で、自宅訪問型の競技会外検査では、安全面・プライバシー面の不安が生じやすいことも事実です。特に、夜間、自宅、女性選手、安全に対する不安という要素が重なる場合、DCOの身分確認と説明は、制度の信頼性を確保するうえでも重要です。

6 選手が取るべき実務対応

この事案から得られる実務上の教訓は明確です。

DCOの身分確認や検査手続に疑問があっても、選手は、原則として検査に応じたうえで、Doping Control Formに異議を明記するべきです。

検査を拒否してしまうと、その後に「不安だった」「安全が心配だった」「手続に疑問があった」と主張しても、compelling justificationとして認められるハードルは非常に高くなります。

選手側としては、少なくとも次の対応が重要です。

  • DCOのID、所属、権限文書を確認する
  • 不明点があれば、その場で質問する
  • 競技団体、アンチ・ドーピング機関、代理人、チーム関係者に直ちに連絡する
  • 可能な限り検査には応じる
  • 異議や不安はDoping Control Formに記録する
  • 検査後、速やかに書面で異議を提出する

7 競技団体・アンチ・ドーピング機関側の実務対応

本件は、選手側だけでなく、競技団体やアンチ・ドーピング機関にとっても重要な示唆があります。

検査制度の実効性を維持するためには、抜き打ち検査が必要です。

しかし、検査は選手の身体、生活空間、プライバシーに直接関わる手続です。したがって、DCOの身分確認、安全配慮、選手への説明を丁寧に行うことは、単なる形式ではありません。

実務上は、次の点が重要です。

  • DCOが常に身分証を携行する
  • 権限文書を明確に説明できるようにする
  • 選手が不安を述べた場合の確認手順を整備する
  • 夜間・自宅検査における安全配慮を明確化する
  • 選手の異議を記録する運用を徹底する
  • 検査員の対応記録を詳細に残す

8 この決定の意義

本件は、ドーピング陽性の事案ではありません。

しかし、アンチ・ドーピング制度においては、検査拒否は陽性反応に匹敵する重大な違反として扱われます。これは、抜き打ち検査の実効性を守るためです。

一方で、本件は、競技会外検査における選手の安全、プライバシー、メンタルヘルスへの配慮という課題も浮き彫りにしました。

制度の実効性と選手保護は、どちらか一方だけを優先すればよいものではありません。公正な競技を守るための検査制度であるからこそ、選手が安全に、かつ納得できる形で検査に応じられる運用が求められます。

9 今後の注目点

本件では、理由付き決定が後日公表される予定です。また、選手、ITIA、選手の国内アンチ・ドーピング機関には、CASへの不服申立ての権利があるとされています。

今後確認すべきポイントは、次のとおりです。

  • DCOが具体的にどのような身分証・権限文書を示したのか
  • 選手が当日、どのような言動をとったのか
  • 医学的証拠がどの程度提出されたのか
  • 仲裁パネルがメンタルヘルスと検査拒否の因果関係をどう評価したのか
  • 4年間の資格停止が比例性の観点からどのように説明されるのか

現時点での結論としては、本件は、選手にとって「検査を拒否することのリスク」を改めて示す決定です。

同時に、競技団体やアンチ・ドーピング機関にとっては、DCOの身分確認、安全配慮、選手への説明をより丁寧に整備すべきことを示す事案でもあります。

パークス法律事務所コメント

アンチ・ドーピング制度は、競技の公正性を守るために不可欠です。

しかし、検査は選手の身体、生活空間、プライバシーに直接関わる手続でもあります。特に競技会外検査では、選手の自宅や滞在先に検査員が訪問するため、選手の安全・尊厳・メンタルヘルスへの配慮が重要になります。

本件の理由付き決定が公表されれば、DCOの身分確認、メンタルヘルスによるcompelling justification、検査拒否に対する4年間制裁の妥当性について、より具体的な検討が可能になります。

パークス法律事務所では、理由付き決定の公表後、改めて本件を分析する予定です。

弁護士 大橋卓生


参考資料・出典

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