Anti-doping/アンチ・ドーピング

2022/02/15Anti-doping/アンチ・ドーピング

北京・女子フィギュアCAS裁定 〔OG22/08〜10〕

ワリエワ選手の北京オリンピック出場を認めたスポーツ仲裁裁判所(CAS)の判断が話題を集めています。

事案

ワリエワ選手は、2021年12月25日に出場したロシアフィギュアスケート2022(サンクトペテルブルク)で優勝を果たしました。この際にドーピング検査を受けましたが、検査の結果がでないまま、北京オリンピックに出場せざるをえなくなりました。ロシア・アンチ・ドーピング機構(RUSADA)によれば、検査結果の連絡が遅れたのは、検査を依頼したストックホルム(スウェーデン)の検査機関のスタッフがコロナに感染したことを挙げていました1。WADA等は、急ぎのフラグを立てて依頼していなかったと指摘しています2。いずれにしても、今回のCASパネルが述べるようにワリエワ選手に非はありません。

北京オリンピックでは、2月7日にフィギュア団体でロシアが金メダルを獲得し、その翌日に先のドーピング検査の結果が通知され、陽性であることが判明しました。
RUSADAは、規程に基づき、暫定的資格停止処分を課しましたが、8日に選手から異議が出され、RUSADA Disciplinary Anti-Doping Committee(RUSADA懲戒委員会)が暫定的資格停止処分を解除する決定を出しました。この決定に対し、IOC、世界アンチ・ドーピング機構(WADA)及び国際スケート連盟(ISU)がCASに異議を申し立てたのが本件です。

裁定書が公開されていないため、CASが公表した範囲3でしか理由がわかりませんが、報道にあるとおり、CASパネルは、WADC上、要保護者(16歳未満)に該当すること、検査の遅れや北京オリンピックでは陽性になっていないことを主な理由として、暫定的資格停止処分を課さないと決定しました。

パネルの判断

各所で報道されているとおり、IOC・WADA・ISUの異議を退け、ワリエワ選手に暫定的資格停止処分を課さないと判断しました。

コメント

ロシア選手権で採取された検体から検出されたトリメタジジンは、WADAの禁止表S4.4に分類される非特定物質です。

非特定物質が検出された場合、世界アンチ・ドーピング規程(WADC)及び結果管理に関する国際基準によれば、強制的に暫定的資格停止処分が課されることになります。ロシア選手権に適用されたRUSADAのアンチ・ドーピング規則もWADCに準拠していますので同様です。 

この場合、強制的な暫定的資格停止処分を解除するためには、WADCによれば、違反が「汚染製品」による可能性があることを立証した場合、またはB検体がA検体の結果を追認しなかった場合です(このほか、分析機関や分析自体が国際基準から乖離しているという指摘も考えられます)。

2月8日の時点ではB検体を分析していませんでした。RUSADA懲戒委員会が暫定的資格停止処分を解除した理由は明らかにされていませんので、解除される理由としては、違反が「汚染製品」による可能性があることを立証した場合くらいしかないのかと考えていました。
CASパネルは、上記WADCは、要保護者について制裁の場面で異なる扱いしているのに、暫定的資格停止の場面では沈黙している(silent)としています。ただ、普通に規程を読めば、暫定的資格停止の場面では、要保護者を含めて一律に扱うのだなと読めました。WADCを制定したWADAもそのように述べています4
CASパネルの解釈は、そういう読み方もあるのかと目から鱗というか、意外に感じました。

出場させるか否か、いずれの判断をするにしても、議論が起こったものと思われますが、CASパネルは、暫定的資格停止処分を課さないと判断しました。

ロシアの団体戦の成績や今後のワリエワ選手のソロの成績については、本件のドーピング違反の結果が明らかになり、処分が決まった場合、その処分の結果如何で変わってきます。
資格停止処分が課される場合、検体採取の日から資格停止処分が開始される日までに獲得した成績は執行することになります。ただし、公平の観点から要請される場合を除く、という例外事由はあります。
IOCは、このことを踏まえて、表彰式をペンディングにしているのでしょう。

他方、本件の処分過程で、選手に「過誤・過失がなかったこと」あるいは「重大な過誤・過失がなかったこと」(要保護者の特例)を立証した場合、資格停止処分が課されない可能性があります。この場合、ロシア選手権の成績は失効しますが、北京オリンピックで獲得した成績は、別途ドーピング違反がない限り、維持できることになります。CASパネルが回復不能な損害が生じるおそれがあるとしたのは、こうした可能性があることを踏まえてのことと思います。

ところで、ロシアとして東京大会と北京大会等への出場を禁止したCAS2020/O/6689の裁定との関係で、ロシアオリンピック委員会としてオリンピック等に参加できるアスリートについて、次の条件が付されています。

The Athlete/Athlete Support Personnel shall not be subject to suspension, restriction, condition or exclusion imposed by a competent authority in any past or future proceedings which remains in force at the time of the specified event.

本件において、この条件との関係が議論されたか、その場合にCASパネルがどのように判断したか、興味があります。

ワリエワ選手にとって酷な状況を作ってしまった関係当事者の対応に問題がありそうですね。
WADAの前事務局長David Howmanさんは、RUSADAが検査機関を急かさなかったことのほか、WADAも彼女の検体が採取され、検査する必要があることは知っていたはずであり、同じくISUも知っていたはずであると指摘しています5
私も日本のアンチ・ドーピング体制の一部をお手伝いさせていただいておりますが、関係各所の連携が重要であることを改めて認識しました。

追記

最新のニュースとして、ワリエワ選手の弁護士が、クリスマスにグラスを共有していた祖父の心臓病の薬が原因とコメントしたとのことです。海外のニュースサイトでは、弁護士のコメントが次のように報じられています6

For example, her grandfather drank something from a glass, some saliva got in, this glass was somehow later used by an athlete. Or the drug was laid down on some surface, traces remained, the drug lay down on this surface, which the athlete then drank.

日本では、後半の抽象的なコメントが報じられていないように思います。
今後の手続で、彼女に「過誤・過失がなかったこと」あるいは「重大な過誤・過失がなかったこと」と判断され、オリンピックの成績が維持されるか否かが注目すべきところでしょうか。

同種の事案がないか、ざっと過去事案を調べたところ、CAS2006/A/1025が見つかりました。
成人のプロテニス選手(アルゼンチン)例ですが、2005年のフレンチオープン時の競技会検査でエチレフリンという心臓病の治療に用いられる薬物が検出された事案がありました。

この選手の妻は、2000年11月に初めて会った時から、医師が処方した高血圧・生理痛を緩和する”Effortil”(有効成分としてエチレフリン)という薬を使用していました。”Effortil”はアルゼンチンやヨーロッパのいくつかの国では店頭で購入することができます。無色・無臭・無味だそうです。選手は禁止物質が入っていることを知っていました。

2005年6月5日、フレンチオープンの決勝戦当日、この選手は妻とともに、ホテルからスタジアムに向かい、午後3時から行われる決勝戦に備えて正午頃にコートでウォーミングアップを行いました。スタジアムの男子控え室で昼食をとった後、この選手は決勝戦の開始前に、妻、母、兄、兄の婚約者が昼食をとっていたスタジアムのカフェテリアに入りました。彼らは小さなテーブルに一緒に座り、その上にはコーヒーカップと水用のグラスが置かれていましたが、どれも同じ外観でした。選手はコーヒーとミネラルウォーターを飲んでいました。

決勝戦の開始直前、選手は、妻とその家族に別れを告げ、試合の準備のために更衣室に戻りましたが、試合が少し遅れることを知り、カフェテリアに戻りました。

選手がカフェテリアを不在にしていた間、妻は、夫(選手)が座っていた椅子に座り直し、自分のものだと信じていたグラスに”Effortil”を20滴落としました。そして、そのグラスに水を注ぎ、”Effortil”を飲み干しました。その後、彼女は母親と兄の婚約者と一緒にトイレに行くために離席し、兄が一人でテーブルに残っていました。

選手がカフェテリアに戻るとテーブルには兄だけがいました。選手は、自分が持ち歩いていたボトル(放置せず開封もしていなかったボトル)から、先ほど飲んだと思われるグラス(妻が”Effortil”を入れたと思われる)に水を注いで飲みました。

こうした事案で、選手は「過誤・過失がなかったこと」「重大な過誤・過失がなかったこと」を主張しました。

CASパネルは、偶然かつ不注意のドーピングについてCASの先例は厳格に対処していることを指摘し、選手は、重要な時に最大限の注意を払っていなかったことを認定して、「過誤・過失がなかったこと」には該当しないとしました。

「重大な過誤・過失がなかったこと」については、選手が摂取したものは水であり、ビタミンやサプリメント等ではなく、その水は自分が持参したきれいな水であること、”Effortil”は無色・無臭・無味であり、感知できなかったこと、離席した間に妻が選手のグラスで薬を飲んだことを知り得なかったこと、自分が座っていた場所に数分間グラスを放置した場合、通常の状況下では、それが自分が使っていたグラスと同じものと考えることが合理的であること、検出された禁止物質がごく微量だったことから、「重大な過誤・過失がなかったこと」に該当すると判断しました。

ワリエワ選手の弁護士が指摘した事実くらいでは「重大な過誤・過失がなかった」と判断されないと思われますが、上記事案のような特殊な事情があったことを立証できれば「重大な過誤・過失がなかったこと」に該当する可能性はありそうです。

弁護士 大橋卓生

《参照》
[1] https://rusada.ru/en/news/press-releases/kommentarii-raa-rusada-v-otnoshenii-resheniya-cas-ad-hoc-division-ot-14-fevralya-2022-goda/
[2] https://www.wada-ama.org/en/news/wada-statement-following-cas-decision-not-reinstate-skaters-provisional-suspension
[3] https://www.tas-cas.org/fileadmin/user_upload/CAS_Ad_Hoc_Media_Release_Beijing_8.pdf
[4] 上記[2]と同じ。
[5] https://www.dw.com/en/kamila-valieva-grandfathers-heart-medication-in-glass-of-water-claims-team/a-60767142
[6] 上記[5]と同じ。

Copyright © パークス法律事務所 All Rights Reserved.